Hindy Quest

はじめてのたたかい

「敗戦」が産み落としたロボット

たまの休みにはネットでビデオ三昧もいいものですな。

ロボットアニメの歴史

いやーなつかしい。しかし編集方針にちょっと気になる点があり、ちょっともやもやとなってしまう。

で、ネット上にロボットアニメの歴史について、なにか文章がまとまってないか探すことに・・

ロボットアニメの歴史

こういう場合の暗黙の前提として「ドラえもん」はロボットアニメに入らない。はいらない理由もなんとなく分かるし、別にはいらなくてもいいんだけど、それだと日本人のロボット好きをうまく説明できないんだよね。

「SF好き」とか「戦争映画好き」ではなく「ロボット好き」や「アニメ好き」にこそ現代日本人の本質にかかわってくるのだから。


藤子不二夫の描く「ドラえもん」は未来の道具を次々と取り出してみせる。そしてノビタがその道具によるメリットを友人と共有できるとハッピーエンド。自己の利益のためだけに使おうとするとしっぺ返しがくる。

つまり次々と登場する家電製品との付き合い方を教えてくれる身近な(身近すぎる)存在が「ドラえもん」だった。(原作は小学館の学習雑誌だった)過去に手本をもとめられないため、それは未来からきたロボットの役割でなければならなかった。


一方で永井豪は、かつての「大仏様」とかの代わりの守り神を創造した。その辺の雰囲気は「大魔神」とかを見ればわかる。(永井豪マジンガーZというネーミングはここから来ている。)

巨大スーパーロボット教の開祖みたいなものだが、敵の設定に特徴がある。かならず歴史認識論争をしかけてくる。恐竜帝国しかり、邪魔大王国しかり、デーモン一族(これはデビルマンなのでロボットではないが巨大ヒーローではある)しかり。何度も繰り返されてきた敗戦をめぐる歴史認識論争と同じような内容だ。ゲッターロボの第一話では恐竜帝国側は「謝罪しろ!」とか「参拝を中止しろ!」とか言っていたような気がする。

巨大スーパーロボットというものは、体の小さい幼児の身体的コンプレックスを埋め合わせるのに実にぴったりなので(ガンダムとかボトムズなどの)リアルロボットが中・高生以上に受け入れられていく同時期に巨大スーパーロボットのコンセプトはスーパー戦隊などに取り込まれていくことになる。




日本人のロボット好きには「敗戦」が色濃く反映している。そもそも手塚は空襲を経験している。

軍事力に秀でた周辺の蛮族(アメリカ)が文明国(日本)を征服すると、文明国の側で文化の爛熟が起こる。軍事で勝てないので文化で圧倒しようとするのだ。これは歴史法則だ。

インディアンを滅ぼして建国したアメリカにはそもそも軍事に直接つながらないところでの文化は存在しない。(たとえば高級アメリカ料理が何を意味するかを考えてみればいい)江戸時代の日本と同時期のアメリカを比較してみれば一目瞭然だ。

敗戦後の日本では「精神では負けていなかったが、物質に敗れた」とするテーゼが掲げられて、人々は物質における劣勢をとりかえすべく、まい進する。戦時中の過度の精神主義に対する反省と嫌悪感もそれを後押しする。自動車やエレクトロニクスに狂信的ともいえるほどのめりこみ世界有数の巨大な産業をつくりあげる。やがてそれはさまざまな電気製品となって家庭にはいりこんでくる。ノビタの家にもだ。

日本のアニメは敗戦後の文化の爛熟の中心的一部をになっている。

ところがアメリカには古代文明からヨーロッパを経た文化を受け継ぎまくったユダヤ人がいてなかなか圧倒させてはくれないのだ。
よって日本のアニメはより爛熟していくしかない。

しかし、いくら敗戦がショックだったからといってそもそも精神と物質とを切り離すこと自体に無理がなかったか。ノビタも道具がでてきてから使い方を考えるのではなく、最初から友人と幸せになる方法を考えた方がいい。ゲッターも敵が恐竜なんだからといって恐竜のサイズに合わせる必要はなく小型の兵器で戦って食料にしようという発想はないものか。

実はアングロサクソンはとっくの昔に日本のアニメに圧倒されてオタク商品を買いあさっているのにね。