Hindy Quest

はじめてのたたかい

大衆を信じられない知識人たち

知識人の苛立ち

 知識人が苛立っている。まあ、誰とは言わないでおく。たくさんいると言えばたくさんいるし、知識人は個人であるから、究極的には一人なのだろう。そとから見ていて痛々しいほどだ。

近代的な思想だけでは理解できない日本の状況

 近代の知識人のモデルは誰なのだろう。ヨーロッパに範をとっているんだろうな。漢学者系の知識人のあり方も、これだけ複雑怪奇になった社会を理解するには難しいだろう。「俺はわかっている、賢いんだ」っていう態度をとっても、実のところ、さっぱり分かっていないことは見透かされている。結果はどうなるかっていうと力をもてない。負け組入り決定だ。金や権力がなくても、教えを乞う人がやってきていれば、知識人として最後の一線は守れる。でも、あなたの教えに耳を傾け、理解し、支持し、それを生きる糧にしてくれる人いますか。教育産業の既得権にしがみついていないですか。知識人たち、どこで間違えたんだろう。

「無知な大衆」という幻想

 現代日本では大学卒に意味がない。受験勉強で苦労したとか、関係ない。だって大学卒業なんてめずらしくないんだもん。民衆の過半が文盲で、学歴なんてない時代ではない。一番大事なことは民衆は情報を持っている。民衆の興味の方向は、一見不可解でくだらないことに集中しているかに見えるが、常に次の時代の社会の可能性を探し求めている。だから常に意外な場所から、知的に影響を与える人物を探しだしてくる。エリートシステムが機能していなくても社会は、勝手に代わりの機能を果たす。旧来の知識人とは肩書きが違い、興味の対象が違い、語り口が違う。でも彼らニュータイプ知識人たちは大衆を啓発し、影響力を持ち、ついでに勝ち組だ。まあ、名前を挙げてもいいんだが、オールドタイプ知識人はどうせ知らないだろう。

「平等」の自己矛盾

 大衆を蔑視していると感じられる知識人ほど、「平等」が重要な人たちでもある。これは「平等」の主張のかげに「嫉み」があるってだけではなくって、「俺は賢い、後はアホ」というふうに平均化されているだけ。そりゃ誰に対しても平等だわな。

隠居人じゃねえ。

 なんでこんなこと書いているかっていうと、私は自分の興味の世界にはいっていくとき、社会のものごととか世間の話題とかふっとばしてしまうわけで、でも、いちいち反応しないけど、いちおう、社会的な議論も聞こえているし、関心もあるんだけど、必要な知識人は足りているし、いろいろ問題はあるけれど、それはそれで世の中まわっていることに、大きく信頼をおいている。なにも変えなくていいと考えているわけではなく。「なにもかもを同時にはできない」「千里の道も一歩から」とか「道路にいきなり穴があいたりしていないで、水道から水がでる幸せ」と共にあろうというだけのことである。