サルでも話せる日本語へ向けて

 反面教師という言葉はあるが、反面教祖という言葉はない。逆効果はあっても、逆教化はない。でも日本では逆教化とでもいうべき現象が起こっている。
 小学校から始まって、長い時間を「国語」の勉強に費やしてきて、大人になってみて思うことは、日本語が良く分からなくなっているってこと。どういうことかというと、日本語が通じるということの最低限のラインがわからない。言葉によるコミュニケーションの土台が不鮮明になっていて、しゃべってる相手の「言葉の使い方が足りない」と思ったときに、指摘してあげることができない。「業界用語」なら仕事の一部なので、簡単なんだけど、いったい(方言や、特定の業界の特殊な日本語を超えた)一般日本語としての最低限の単語、最低限の文法、ってどの辺なんだろうねええ。「丁寧語」がわからない状態の日本語能力の人に尊敬語とか謙譲語を詰め込めば、パンクするのは当たり前だろう。機能の詰め込みすぎでつかいこなせなければ意味がないのは電気製品も教育もおんなじ。
 これは日本語についての言葉を「伝える」というもっとも基本的な機能について、考えてこなかったことをあらわしていると思う。思想に質実剛健なたくましさが、ないんだ。もちろん言葉は「伝える」ためだけにあるわけじゃねえ。でもさ、買ってきてすぐに故障する製品は、ダイヤモンドを散りばめて何百万円もしようとも断固として「安物」だよ。「デザインが美しい」とか「質屋でも高く買ってくれる」のは本質の機能からは離れた価値、つまり調味料。
 伝わることがなければ、「美しい」日本語も「正しい」日本語も安物ですよ。そいつらは伝わって初めて意味があることなんだよ。言葉は伝わって何ぼのもんや。そやそや。
 国語教師や知識人から日本語を奪還しよう。そしてサル*1でも話せる一般日本語をうみだそう。
 

*1:日本国はサルがつくったらしい